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食べられる鶏の気持ちと王達の憂鬱。

昨今は心技体を極めた横綱すら鬱になる世の中だ。
何故にこんなに鬱が多いのかと思うが、先日NHKでブータンの映像を見ていて理由の一端を見たような気がした。

日本をはじめアジアは大体が農耕をして暮らして来た。そこには個々の幸福の追求よりも村落として、共同体としての豊かさを求めていた。
私達の世代は、世間の目を気にして生きている息苦しさから戦後の高度成長期に個々の幸せの追求、そして昨今では個々の欲望の追及へとエスカレートして追及して来た。私などはその典型だ。まあこれはほぼ世界同時進行で起こって来たことだろうと思う。

今、私達は自我が肥大し過ぎて自分を少しでも否定されると極度に落ち込んだり、狂ったように怒ったりする。
それは失恋にも見られる。失恋をしても昔日のラブソングのような状況ばかりではない。ふられると言う事は一種自己を否定されたことになる。または依存症が関係するのか・・・
ストーカー、刃傷沙汰、殺人、自殺。ふられると言う他者からの否定に耐えられない程に自我は強く自己は確立していない。


ブータン政府は僧侶が政治に対して発言権があり、国がどうあれば国民がより幸福で居られるか見通しを出す。
国民の所得は低いが、国民はとても幸福であり生き生きとしていた。何よりも貧しい自分達の事よりも他者に対して祈る態度が美しい。

僧侶の言葉が印象的だった。これは私の記憶に因るもので正しく伝えている自信はない。
「私達は鶏を食べます。しかし誰も鶏の側に立ってものを考えません。もしあなたが鶏で食べられるのであればどうですか? 私達は食べられる側のことも考えて慈悲深くなければなりません。人はあらゆるものによって生かされています」

「そしてあらゆるものに生かされている私達は大したものではないのです。だから自我などたいしたものではありません」

自分の想いを実現するのは自分自身以外にはないのだろうけれど、そればかりが肥大した今、他者の事を想い生きる方が、肥大した自己が解放されて楽になれると信じる。
最近は多くは自分の為にしか生きていない。
先の話に戻れば、相撲協会や横綱としての自覚などより、自分のやりたいことをする。否定されたり罰せられると横綱でさえヒステリーを起す。
またマスコミは日本人には理解しがたいモンゴル人の気質にかなり攻撃的で、少しの理解も見出そうとはしない。どちらも自我の抑制も慈悲の心もない。

鬱に始まり、恋愛ごとでの相手しか責めない姿勢、敵対する相手に対する無慈悲、あまりにも自己が肥大した現在、私はブッダの哲学がとても有効だと思える。
しかし何も怪しげな新興宗教やくだらない既存仏教に入信せよとはさらさら言う気はない。
鶏の気持ちを知る努力が必要なだけだ。


昔は肥大した自己などは一部の特権階級のものだった。今では誰しも特権階級だ。
王侯貴族だらけの世の中は、誰もが住みにくい。全員が王様で彼らは皆家来や奴隷を求めている。全員が鶏を食べる人間でしかないのだ。自分が鶏になることなど微塵も想像出来ない。
各々が自作農であり、各々が市民になってもらいたいものだ。

今日はポラロイド作品の為の素材となるポラ撮影をしていたが、機械が不調の為に失敗した模様。
村田 兼一 | - | 02:13 | - | - | | ログピに投稿する |

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